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170611読んだ本

「みんなde綱のぼり」でもネコ以外は選んだことないぐらい筋金入りのネコ好きだぜ( ̄^ ̄)エヘン
ネコ画像添付メールがケータイに届いて通信料が2000円かかったよ(゚ロ゚;) 悲しきガラケー(T_T)

【読んだ本】

芸術新潮1997年9月号所蔵誌

杉本苑子『女人古寺巡礼』(講談社文庫,1996)は阿仏尼を「酷評」してたが、本誌掲載の藤本孝一
「冷泉家のゴッドマザー 阿仏尼」が弁護してる件を前に引いた(^^) 曰く〈阿仏尼は多くの評伝類で、
わが子・為相のため、御子左家伝来の典籍を不当に隠匿したとの非難を受けています。その根拠と
なっているのは、源承の著『和歌口伝』の「阿房(=阿仏尼)、前中納言(=定家)自筆にしるし
おきたりし折紙の目六を取りかくして、要書あまたかすめとどめてよろづの人に見せ侍りし」との
記述で、つづけて住吉神の罰により阿仏尼やその姉妹が次々と死んでしまったともあります。源承は
為氏の同母弟で、裁判にも為氏側に立って参加した人ですから、その著作が阿仏尼への誹謗に満ちて
いるのも当然ですが、後世の人間までそれに乗るべきではないでしょう。〉と(@_@) 〈一理あるも、
その一文は「冷泉家 サバイバル800年」と題した芸術新潮1997年9月号の特集中の「冷泉家、山あり
谷あり800年史」の一部ゆえ冷泉家=阿仏尼側に立ってるんでしょ?とツッコミが入るよ^_^; 〉と
茶々を入れたが、ポジショントークなのかどうか、論者の立ち位置を見定めるリテラシーは大切(^^)
昨日の藤原俊成つながりで、藤本孝一「冷泉家、山あり谷あり800年史Ⅰ はじまりは俊成と定家!」
を読んでみたら、教わるところは勿論あったけど、気になる点も散見されたよ(..) 「俊成は63歳の
とき大病を患い出家、法名を釈阿と言いました。俊成の凄いところは、歌人として歌壇の長老として、
この頃以降、大車輪の活躍をすることです。彼が50歳の頃から91歳で亡くなるまでの間に行われた
歌合せは、現存するだけで50例ほどありますが、うち21例については俊成が判者を努[ママ]めて
います。判者とは、歌合せ参加者の対になった何百もの歌の優劣を判定し、講評を加えてゆく役です。
歌そのものの出来はもちろん、高貴の人に対する配慮も必要なら、歌壇、政界の入り組んだ人間関係
を把握し、捌いていかなくてはなりません。俊成はその捌き役の名人でした。」とあるけど、先ず
「この頃以降」の「この」は「63歳」を指すはずなのに「50歳の頃から」云々と続くのは変だろ^_^;
俊成「出家」の翌年に歌壇の第一人者である藤原清輔が亡くなったために、俊成は「大車輪の活躍を
すること」になっただけで、そーゆー俊成の歌人としての実力とは無関係な事情には触れてない^_^;
「判者」についても、「50例ほどありますが、うち21例」って、他の歌人と比べて多いのか分らんし、
昨日の久保田淳『新古今歌人の研究』(東京大学出版会,1973)が清輔の生存中は清輔の方が俊成より
判者を務めることが多かった事実を論証してるし、説得力に欠けるだろ^_^; 「捌き役の名人」とする
記述も、久保田淳が同書で俊成の「身贔屓」ぶりを具体的に指摘してたのを知ってると、痛いね^_^;
久保田淳は俊成に肩入れしてるから、ポジショントーク的にも同指摘は説得力があるわけじゃん(^^)
それに西行の歌で最高傑作と評される「心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮」を
俊成は自歌合で負とし、千載集でも選ばなかったという有名な黒歴史(説話にもなった)があって、
石田吉貞『隠者の文学~苦悶する美』(講談社学術文庫,2001)は「俊成はよくよくこの歌の良さが
理解できなかったものらしい。」と酷評してて、「歌そのものの出来」すら解せなかった疑惑も^_^;
次に「子福者だった俊成には、日記文学の『たまきはる』を著した健御前、『新古今和歌集』の女流
の代表である俊成卿女、そして定家など秀れた子女がいました。」との記述にはびっくりした(゚ロ゚;)
「俊成卿女」を俊成の「子女」とする文献も大昔はあったが、石田吉貞『藤原定家の研究』(文雅堂
書店,1957)が出て以来、実は孫娘だったと確定してるのに(@_@) そして、何よりも本誌の小倉嘉夫
「冷泉家、山あり谷あり800年史Ⅲ 偉大なる平凡人たちの春秋」の中の写真キャプに〈俊成の孫娘に
あたり、歌人としても有名な「俊成卿女」は、晩年隠棲していた越部荘で亡くなる。」とある(@_@)
「手前味噌で恐縮だが、新潮社の校閲部と言えば、出版業界では“超一流”として知られた存在。」
と週刊新潮10月20日号が自画自賛してた校閲部は気付かなかったのかな^_^; 更に、定家についても
気になる記述が(..) それは〈一方、後に承久の乱で隠岐島に流された後鳥羽院は、定家を回想して
・・・「最勝四天王院の障子歌を選んだ際、生田の森の歌で、定家ではなく慈円の歌を採用したら、
あちこちで私が不見識だと罵った」などと語っています。才能は認めつつも、和歌のことでは絶対に
自説を曲げない定家を、院はいつしか疎ましく我慢ならない男だと思うようになっていました。〉と
『後鳥羽院御口伝』を基に論評した件(@_@) 先ず『後鳥羽院御口伝』は実は承久の乱以前に成立した
とする田中裕(『後鳥羽院と定家研究』[和泉書院,1995])の説が「有力」(目崎徳衛『百人一首の
作者たち』[角川選書,1983 → 角川ソフィア文庫,2005])らしく、例えば、島津忠夫訳注『新版
百人一首』(角川ソフィア文庫,2008新版16版)も同説に「従う」由^_^; 次に「和歌のことでは絶対
に自説を曲げない定家」とあるけど、定家の歌風が変遷してることは石田吉貞が『藤原定家の研究』
その他で分析していて、「最勝四天王院の障子歌を選んだ際、生田の森の歌」、すなわち、定家の歌
「秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の森の露の下草」を例にとり、その歌風が変化したことを、
石田の同書、村山修一『藤原定家』(吉川弘文館人物叢書,1962 → 1989新装版)、百目鬼恭三郎
『新古今和歌集一夕話』(新潮社,1982)が論じてることを知ってれば、この記述は変に思うはず^_^;
この2点については揚げ足取りの嫌いがあるけど^_^; 藤本孝一は「私は冷泉家の典籍整理のお手伝い
をしている立場・・・」と述べてるから、ポジション的に仕方ないのかもしれないけど、俊成・定家
を異常なまでに礼賛する記述には説得力が無いよ^_^; 当時は「京都文化博物館主任学芸員」だけど、
俊成や定家に関する本も調べずに執筆してるよね(..) でも、その後、大学教授になったとか(゚ロ゚;)
・・・「また、つまらぬ物を読んでしまったorz」の方にアップしても良かった内容だな(´・ω・`)

TV観戦も離席中に点を取られ負けちゃった(;_;) ドラ荒木を牽制死させたオリ山岡が凄かった(゚o゚;)
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コメント 5

ぽちの輔

私もネコのみ^^;
by ぽちの輔 (2017-06-12 07:16) 

middrinn

ですよねぇ~(^^)
by middrinn (2017-06-12 07:37) 

riverwalk

私もやはり猫派です(^^)!
by riverwalk (2017-06-12 07:49) 

riverwalk

私もガラケー(^▽^)/
by riverwalk (2017-06-12 07:50) 

middrinn

ですよねぇ~(^^)
しかもガラケー2台持ちです^_^;
カメラ、愉しそうですね(^^)
川の水面にも鉄塔や茂み等が
くっきり映ってますし(^^)
by middrinn (2017-06-12 08:22) 

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